牧野信一・憂い顔のB級小説家
牧野信一には、居場所がない。ちょうど彼の愛読した「ドン・キホーテ」が、メタフィクションという二重の虚構を行き、あるいは書物と現実に引き裂かれた男の物語であったように、牧野信一もまた、ひとつの「ズレ」であり、「差異」でしかない。私小説と幻想小説、悲劇と喜劇、父の住むアメリカと日本、東京と小田原。彼は、それらの間を往還しながら、それらのどこにも位置することができなかった。差し押えの札が貼られた机の上で書かれていった彼の小説は、ことごとくが短編であり、時代の流行とはおよそ縁がなく、しかも翻訳小説めいたぎこちない日本語で綴られている。それゆえに、牧野信一は過去においても現在においてもマイナーであり続け、しかしそれゆえに、けっして忘却されてはならない。