桜はこびやった牧野さん  談:尾崎一雄  

  わたしがいま勘定してみたら、ちょうど六十年前に小田中(おだちゅう)でてるんですね。いま満で七十七ですから、卒業が大正六年で満で十七ですね。六十年たって…  昔はむこうの海に白帆がたくさんでてまして、カモメがよく飛んでいましたよ。それで教室で先生の講義を聞きながら海を見ていると、どうしても眠くなる。この先生の講義ってのはね、ちょうどいい子守唄みたいになりましてね、ねちゃうんですね。ことにこの桜の咲くじぶんてのは眠いんですよね。やっぱり春眠暁を覚えずっていうけども、もう少したつと、あの生徒諸君も、四月の新学期ってのはのんきですからね、なおさらねむくなっちゃう。
 わたしがはいった時は、小田中ってのは、小田中とはいわないで県立第二中学。横浜に一つあったこれが神奈川県立第一中学。小田原が第二、厚木が第三、横須賀第四、その四つだけしかなかった。で、あたし共が三年になる時に、小田原中学っていう名前になった。なぜかというと、あの横浜にもう一つふやすことになった。それで横浜第一、横浜第二……そのついでにここは小田原中学、それから厚木は厚木中学、そういう地名を冠するようになったんですね。それは大正三年ですかね。で同時にその年に、今の駅んとこにあったのを、校舎がこっちへ引っ越した訳です。ですから、私はあのむこうに見える曽我山のふもとの下曽我っていうところ、あすこからここまでだと……八キロ半ありますかね、旧校舎だと八キロくらいでしょう、それを毎日往復歩いて通っていた訳です。
  ううん。女の子も今の城内校が、当時は町立の小田原女学校、高等女学校で、女の子もわたしの妹がそうですけども、歩いて通っていたんです。洋服じゃない、元禄紬の着物をきてえび茶の袴をはいて、そして下駄ばきですね。それで歩いていましたね。
 ここへ引っ越す時に、旧校舎にあった桜とか、つつじ、生徒が、三年以上――一年生二年生てのはしょうがない――三年以上、つまり今の中学三年生と高校の一年や二年位の年頃の生徒が、体操の時間ごとにその桜はこびやった訳です。けっこう太い――それを植木屋が枝をつめましてね、根を掘ってうまくやってこうからげて、それをこの百段坂をかつぎあげたんです。随分手間がかかりましたよ。だけども、ここのいい校舎へうつれるんだから、みんなうれしがってはこんだ。その時の最上級生が鈴木十郎さんや牧野信一さん。それでね、私が入ったとき、この人達は四年生だったんですね。この人達は一生懸命はこんだ途端に卒業しちゃったから、新校舎へ入ることができなかった。鈴木さんは、あとあとまでそのことを非常に残念がって、馬鹿な目みちゃいましたよってぼやいてましたね。ううん、牧野さんは、別にそういう事いってなかった。ううん、その牧野さんの碑が桜の下に出来たんです。これは非常に適切な、ほかにあれよりもいい場所ってのはちょっと考えつかないくらいですね。今この校舎の斜面にあるこの桜、沢山ありますけれども、この程度のやつはあとから苗うえたんでしょう。だけど、こんな太いやつがありますよ、古ぼけた奴が何本かね。あれがそのあたし共がかついで持ってきた桜ですよ。もう数少なくなりましたがね。
 そういう訳で、その下のクラスの人の入っていうと、小金義照さんが最上級生で、この新校舎に入った訳です。小金さんなんか剣道選手かなんかで、体立派だったし、力もあるし、ですからもう一生懸命で運んだ方の人です。でも、これは入ったからいいです。最上級生として、鈴木さんなんか一生懸命やったけど、結局この校舎に入れずに、牧野さんもそうですね、卒業してしまいましたよ。
 この石井(富之助)さんがこっち移って、大正十二年の関東大震災で校舎がつぶれちゃったから、卒業記念はどっかむこうの土手の方へ並んで記念写真とったとかボヤいていましたがね。今さらしょうがないでしょう、命があっただけ……。あたしはケガしたんだから、下曽我にいて……。いろいろ話はありますけど、この位で……。

小田原文話会報第2号(1977年6月発刊)より

 会報第2号には尾崎氏の上記、談話について、次の囲み記事が掲載されている。
”第一回牧野信一忌(77年3月24日)にちなみ、懇親会が県立小田原高校図書室で催されました。以下は、その際の尾崎一雄氏の談話を再録したものです。”