牧野信一と朝井閑右衛門、そして

 6月の始め、横須賀美術館を訪れた。目のまえに東京湾の青海原が広がる、まるでリゾートホテルのような美しい美術館。ここ横須賀美術館で開催されていたのが「朝井閑右衛門展」である。朝井閑右衛門は戦後に横須賀で20年ほど暮らし、晩年は鎌倉のアトリエで過ごした。閑右衛門が亡くなった後、ご遺族から約600点近くの絵画や資料が横須賀市に寄贈され、それをきっかけとして横須賀市市制100年の2007年に建設されたのが横須賀美術館であるという。
 朝井閑右衛門が絵を始めた頃、小田原に移住し牧野信一と交流があったことはよく知られており、この美術館展で信一とのつながりや小田原とのつながりなど新たな発見ができればと思い訪れた。閑右衛門は、信一だけではなく、私の祖父にあたる信一の弟・牧野英二とも深く付き合いがあり、また英二を通して信一や英二の従兄弟にあたる画家牧野邦夫とも結びついていたことも知っていたので以前から興味深く感じていた人物だ。
 閑右衛門と信一の出会いは、閑右衛門が小田原へ移住してきたことで始まった。昭和3年頃の出来事である。展覧会年譜を調べていくと閑右衛門は信一の小田原の住まいの隣にしばらく住んでいたことがわかった。※1 信一の小説「朝居の話」では、「絵かきの朝居閑太郎が僕の前に案内されて僕の前に立ち」とあり「青年画家朝居閑太郎―何処の産で、何んな経歴を持ち、何処に育ち、今年何歳か―何も知らない僕は―」と閑右衛門のことを書いている。二人が出会った頃は信一32歳、閑右衛門27歳。若い二人の交友生活はさぞかし楽しく生き生きしていたのだろうと思える。その頃の思い出が一番楽しかったのか、晩年を一緒に過ごしたお弟子さんであった門倉芳枝さんはその著書※2に、晩年の閑右衛門は「小田原にもう一度住みたい」と言っていたと記している。
 今回の展示作品「積藁のある風景」は小田原時代に描かれていたものであり、積藁の何気ない田舎の風景ではあるが、共に紹介されていた「小田原時代の写真」に写る風景と同じものであることがわかる。この写真には閑右衛門を囲むように信一、藤浦洸、川崎長太郎、岩越昌三が一緒に写っている。

 もう一点「小田原風景」という作品が展示されていた。こちらは林のように木々が乱立した画で、このどこがいったい小田原の風景なのかと思うような作品。ただ小田原をよく知っている人であればわかる。ちなみに小田原育ちである私にはすぐにわかった。これは小田原の城山にある「総構え」の風景を描いたのではないかと思われる。総構えとはいうのは、小田原北条氏が豊臣秀吉との戦いに備えて造ったと言われている堀と土塁でできた要塞の跡。今でも小田原の各所に残り当時の様子をうかがうことができる。特に全国的にも最大規模と言われている空堀が小田原の城山にある「小峯衛鐘ノ台大堀切東堀」であり、この画はここを描いたのではないかとも思われる。私はたまたまこの春に訪れたばかりだったので、すぐにここではないか!と思った。

 今回の朝井閑右衛門展では、絵画だけではなく様々な資料も展示されており、その中には閑右衛門がこまめにつけていた手帳がいくつかあった。その一冊には「牧野信一碑文集」の文字。信一の40回忌(1976年)に文学碑を建立した際『サクラの花びら』※3という記念誌を発行しており、それのことを言っているのだろう。「サクラの花びら」は、信一にあてた追悼文を集めた文集であり、島崎藤村や井伏鱒二、中原中也、坂口安吾などの著名な文学者に混じって朝井閑右衛門も寄せていた。閑右衛門は文学碑建立にあたっての発起人の一人にもなっており、記念誌をまとめる役にもなっていたようだ。ただその頃、閑右衛門は体を壊しており、その病床に信一の弟牧野英二が出向き聞き取り、閑右衛門の追悼文として「サンニー・サイド・ハウス」を載せた、ということが『小田原史談』※4に記されていた。 
 「サンニー・サイド・ハウス」によると、閑右衛門が信一と出会ったのは小田原の浜辺でスケッチをしているところで散歩中の信一夫妻が話しかけてきたとある。小田原在住当時は、信一以外にも川崎長太郎、福田正夫、彫刻家の牧雅雄、桃源寺の和尚、上大井村の村長などにぎやかな面々と毎晩のように交流を深めていたともある。
 信一が亡くなった時期、閑右衛門は昭和11年に文部大臣賞を受賞した大作「丘の上」の制作をしていた。この画のどこかに亡くなった信一へ対する想いも描かれているのかもしれないとじっくり向き合うこともできたが、私にはちょっと難しいことでした。信一の葬儀に小田原の家へ駈けつけた宇野浩二の追悼文には「棺の上に、牧野の横向きの顔を描いた六号位の油絵が額縁なしに置かれ」とあり、葬儀に参列した文学者の中にも似たような文を書いている人もいた。前述の門倉芳枝さんの著書には「私もこの油絵を見たいと思っている」と記されている。これらのことから、棺に置かれた絵は閑右衛門が描いたものなのだろうと確信したいが、存在自体はわからず、私も機会があれば見てみたいものだ。
 信一の弟であり私の祖父である英二と閑右衛門はいつどこでつながりをもったのか正確なところはわからないが、前述したように展覧会年譜によれば昭和3年に小田原の信一の家のすぐ裏に閑右衛門が住んでいたことから行き来があり、当時14歳の英二は、その頃から知っていたのかもしれないとも思われる。
 英二の娘・英里の話によると、戦後閑右衛門はよく東京の英二の自宅に訪れていたという。英里の記憶によると閑右衛門は色が黒くとても濃い顔だったという。閑右衛門の描いたヨットの絵がリビングに飾ってあった。英二の妻であり英里の母・治子は自分の白い帯に薔薇の花を描いてもらったという。どちらも手放してしまったらしいが、ヨットの絵は閑右衛門も一時期描いていて、晩年には薔薇の絵も描いている。画集の絵を見た英里は、この薔薇だったと断言した。
 朝井閑右衛門と牧野信一、弟英二、さらに従弟の画家の牧野邦夫。今回の展覧会を契機に調べれば調べるほどに細かなつながりが見えてきた。小田原とのかかわりもよくわかり、もっと深く調べていくのも面白いかもしれない。

 ※1:『没後40年朝井閑右衛門展図録』(横須賀美術館 令和5年) 年譜より  「1928 昭和3 27歳 この頃、神奈川県足柄下郡小田原町新玉2丁目386番地・本源寺不動堂裏の借家に作家牧野信一の紹介で住むようになる。西隣には牧野一家が住んでいた。」
 ※2:門倉芳枝著『朝井閑右衛門 思い出すことなど』(求龍堂 平成15年)
 ※3:牧野信一文学碑建立記念誌『サクラの花びら』(発行:牧野信一文学碑を建てる会 昭和51年)
 ※4 『小田原史談』第135号「朝井閑右衛門 昭和初頭の頃小田原にて」(発行:小田原史談会 平成元年。文・隠岐威重)

MAY
  牧野信一弟・英二の孫。神奈川県小田原市出身。
結婚後各地を転々とする転勤族時代を経て、
神奈川県に戻り、現在は夫、娘、息子、猫との生活。
神奈川に戻ったのを機に牧野との交流深め、現在に至る。
子供たちの成人を機に、フリーのライター初心者として時々執筆中。