■2009年開催朗読会
6月27日『月あかり』朗読会案内PDF(終了)
■2008年開催朗読会
9月21日『ゼーロン』朗読会案内PDF(終了)
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■朗読者、蔀英治氏のインタビュー『マキノを音声で伝える快楽、聞く快楽』(05/03/18)
(告)2005年3月17日、「牧野信一の文学」を昨年上梓された近田茂芳氏が逝去されました。慎んで哀悼の意を表します。
関連ページ:『牧野信一の文学』刊行(近田茂芳著・夢工房)
(告)2004年8月29日、種村季弘先生が逝去されました。直ちには何の言葉も吐けませんが、慎んで哀悼の意を表します。
Webサイト「続・西部劇通信」 編集人・熊谷真理人
まず「マキノワールド」と「マキノ君」について、定義しておこう。マキノワールドとは牧野信一の小説160余篇が集合的に作り出す作品世界である。それは一見何の脈絡もない断片のようで、総てを集めて読むとマキノ君のいる時空」の年代記を形成するような不思議な読み物である。150余篇の全エッセイ・評論などはマキノワールドの「造型ノート」「史料集」というべきものである。
このマキノワールドを構成する短編は完結した作品として読めるものもあれば、そうでないものもある。それは作品の出来のせいのようだが、実は「マキノワールド」という時空の濃度が変わるせいである。(我々が歴史の勉強をしていても、「源平の合戦」は完結して見えるが、その前後のすさまじい争闘の連続は、不連続に見えたりする。いわゆる「ギリシャ牧野」はアテナイが三大哲学者を輩出した時代のようにマキノワールドの興隆期といえるのだが、その前史も後史も実は連続性を保っている。)
新しい全集になってさらに明瞭になったのだが、読者はどのページを開いてみても、マキノ君の周囲に大小の事象が生起していて、多くの場合それが他のどこかのページに通底しているのを見出す。例えば「鬼涙村」の読者は、その直前に書かれた「創作生活にて」で子どもたちをものすごい形相で追っかけていたのは地主の万豊でなく、マキノ君であったことを知る。また今回初収録された「ビルヂングと月」を読むと、なぜ「ゼーロン」の旅程が新宿駅を起点に始められなければならなかったかがわかるのである。
さて「マキノ君」であるが、作家牧野信一が全生涯を賭けて記述し続けた「私」という装置(しくみ)の総称である。「信一」「シン」「純吉」「タキノ」「樽野」「滝」…きりがないのでやめるが、これらが=マキノ君である。=牧野信一ではない。
付言すれば、マキノワールドの地政学上の位置は20世紀前半の「ヲダワラ」である。ヲダワラはマキノ君の観察と活動によって、その同時代史・人物・風土・自然が克明に記され、後代に残されることになった幸福な土地である。もちろん、"マキノ君inヲダワラ"であって、「牧野信一の小田原」ではない。
牧野信一は「私=マキノ君」という人間の外的交渉(発語・行動)、内部の心的反応、そして内的時間の経過についてのみ造型を行う。
「父親と英語でのみ親密に会話を行う」「アメリカ娘に小田原の方言や男の子言葉をしゃべらせる」「ある集落の村人全員が、渾名でのみ呼び合い、本名は忘れられている」「大人も子どもも仮面をつけて行動したがる」……こういった造型に工夫を凝らし、「私」という装置がいかに外界に対峙するか、あるいは屈服するかを精密に描き出すことでマキノワールドを構成するのだ。したがってマキノ君の五感の及ばない「マキノワールドの他の部分」というのは存在できないのであるが、この一貫した制作態度によって現前した「等身大の神話」的世界の精度には山本健吉も舌を巻いた。
-元々彼が描き出そうとした世界が素朴な意味での身辺のことではなく、謂わば彼の全世界であったことを示すものである。自分の一挙手一投足が宇宙的な意味を持つそういった世界が彼の脳裏には何時の間にか形成されていた。-「牧野信一(二)夢と人生」
若き河上徹太郎が「善良なるアテナイの市民マキノ君」で、感服しているのもこのことなのである。
-然し一番六ヶ敷いのは、自分と丁度同じ大きさなものを書くことだ。そして牧野氏はこれに見事に成功してゐる。かくの如き真実と持続と造型を以って貫かれた文章は近来の日本文学にない。-
(くれぐれも「自分と丁度同じ大きさなもの」であって「自分自身」でないことに留意しよう。)
ただし、この世界にも欠点というべきものがあることも認めざるを得ない。 まずマキノワールドでは、他者や外部の事件はマキノ君という装置を介して常に変形し、生成し直されて行くために歪んで見えたり、揺らいで見えたりする。結果として読者に示されるのは、一見不安定な開放系の物語空間である。だからマキノワールドには作者もいうように「今僕が話そうとしてゐる噺の世界へほんとに自分が入った気にならなればならない」(嘆きの孔雀)と、入って行きづらい。
またマキノワールドは最近話題になった映画・ドラマ「サトラレ」のように、時空に常にマキノ君という人間の意識や言葉が充溢しているので、読者はそれなりに居心地が悪いかもしれない。(後代の読者のために言っておくと、「サトラレ」とは自分が心で考えていることがそのまま他者の耳に言葉として聞こえてしまうという架空の精神疾患を持つ者のことである。)
牧野信一の作品が不当にも、そして不幸にも多数の支持者を得られない理由はおそらくこの辺にある。
しかし、我々が「コミュニケーション」と呼ぶものについての物語を記述する場合、牧野信一のこの戦略はきわめて重要な一拠点を築いているのではないだろうか?
・なぜなら我々全てが、他者の言葉や、外部の現象を等質にとらえることなどできず、自分という装置を介して、自己の内部にあふれてくる「サトラレ」の声(それぞれ互いには聞こえない、ラッキー!)と混ぜこぜになった反応を「現実」と呼んでいるのに過ぎないのだから。
私はおそらく、得も言われぬ「私の危機」を感じ、自分というものの取り扱いに苦慮するたびに、全集のページを開き、マキノワールドでのマキノ君の振舞いを観察する者であり続けるに違いない
(FIN)