(略) やはり牧野信一の作品で今日、読んでみて文句なしに面白く楽しいのは、文壇が黙殺し去った中期の幻想小説であろう。「鱗雲」「村のストア派」「吊籠と月光と」「西部劇通信」「ゼーロン」「バラルダ物語」「酒盗人」といった、昭和二年ごろから昭和七年ごろにかけて書かれた一連の短編は、それ以前の私小説とはおよそ打ってかわって、明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙ですこぶる痛快である。かつて日の当たらぬ地面を這い回るいじけた幼虫であった著者は、ここに至って見事に羽化をとげ、地面を蹴って宙に舞い上がり、陽光を全身に浴びて、あるいは月光に酔い痴れつつ、自在に空を翔けめぐる。作中に狂気の暗い翳が皆無なのではない。しかし、それを勢いよく吹き飛ばすに足る健康な活力が全篇にみなぎっている。作中に生活上の不如意への嘆きや蒼ざめた悲しみが尾を曳いていないのではない。だが、その嘆きや悲しみを圧倒して酒神賛歌の高らかな笑い声が響き渡る。
とにかく、これらの幻想小説は退屈で陰湿な自然主義的文学風土をみごとに脱して、ファンタジーとフモールが仲良く手を取りあいダンスに興じて、愉快でカラッとした、醇乎たる夢幻の別乾坤を創造している。それはサイレント映画のスラプスティック・コメディーや、連続冒険活劇や、アニメーションや、パントマイムや、マリオネットや、シェイクスピアの「夏の夜の夢」、アリストファネスの「雲」のような夢幻喜劇や、ページェント(仮面野外劇)や、カプリッチオ(奇想曲)とも通い合う、大人も子供とともに堪能できるエンターテインメントとしての楽しさに充ち満ちている。文壇や文学史のカビ臭く野暮ったい常識などにはまったく不案内な、そのかわりエンターテインメントについてはいずれ劣らぬ通人ぞろいの、今日の若者たちこそ、あるいはこれらの幻想小説の醍醐味を心ゆくまで味わいつくせる、最初の読者たちかもしれないのである。(略)
(岩波文庫解説P.304-P.305)