牧野家とアメリカの不思議なご縁

 私は牧野信一の実弟、牧野英二の娘の牧野英里です。普段は牧野英里子と名乗っています。その話は後程に。
 信一は、私が生まれる5年前に亡くなっており、会ったことはありません。私の兄は3歳の時に信一の亡くなった現場にいましたが、その話も聞けずに3年前に亡くなってしまいました。
今年4月に小田原で開催した西さがみフォーラムの中でお話しをさせていただきましたが、私が幼い頃は信一が暮らしていた小田原の家で、信一の母である栄さんと私の家族と一緒に住んでいました。当時、藤製の椅子やランプシェードなど信一の物と思われるものが全て物置にしまわれていたのを覚えています。父、英二からは一度も信一の話は聞いたことがなく、今にして思えば、いろいろな事を聞いておけば良かったと少し後悔しています。ただ、父としてはきっと信一の事は思い出したくなかったのかもしれません。
 私の名前についての話。私の名前は「牧野英里」。父、英二によってつけられた名前です。信一の作品「父を売る子」の中にもありましたが、牧野家には代々子供の名前に「英」の字をつける慣習があったのは本当のようです。長男であった信一には「英」の字はついてはいませんでしたが、次男である私の父には「英」の字の「英二」です。そして私にも「英」の字の「英里」、私の弟は「英晴」といいます。弟の子もまた「英」の字がつけられており、その子供にも「英」の字がついています。この先もさらに代々と続いてくれたら良いなと思います。
 私が生まれたのは終戦前の昭和16年。父、英二は菊池寛が創業した「文藝春秋」で共に働き、その後私が生まれた当時は、同じく菊池寛が創刊した「モダン日本」の社員として働いていました。その頃は、戦争へ行ったり来たりの生活をしており、戦地からの記事を書いたこともあるそうです。戦後、菊池寛から「モダン日本」を引き継ぎ、その後は「三世社」を起こし「講談読切倶楽部」を創刊。雑誌の仕事をしながら牧野信一全集の発行に力を注ぐことなどもしていました。母が亡くなりしばらくして雑誌の仕事を退職後、小田原の家を売り払い、当時私の住んでいたアメリカのデンバーに移住。デンバーでは、アメリカに住む日本人向けの新聞を発行することに力を入れ、その後アメリカの地で亡くなっています。
 私にはアメリカ人の夫がいます。夫と知り合ったのは結婚適齢期ごろ。昭和40年代、あの時代は25歳になっても結婚しないで家に居るのは遅いのではないか、のような風潮。母にもそろそろ結婚をと。うるさく言われていました。私にも当時は結婚してもいいかなという人くらいはいましたがいろいろ問題が多くなかなか話は進まず。そんなとき、仕事場に来たのが今の夫で、なんとなくお付き合いするようになりました。私にとってもアメリカ人との交流はとても新鮮で楽しかったと思います。ある日夫が私の家に勝手に押しかけ、帰宅すると家で母と楽しそうに待っていたなんてこともありました。派手好き、新しいもの好きの母は大乗り気。アメリカ人が家に遊びに来たのですもの、それは大喜びでした。あの頃で言う「あいのこ」、今でいう「ハーフ」の孫が欲しかったようです。自分の夫がアメリカと戦争していたことなど、気にもしない。日本がアメリカに戦争で負けたことなど、関係ない。そんな感じでした。
 私の母は昔から少し変わっており、私の小学生の頃は毎日フリフリの洋服にパーマネントの「シャーリーテンプル」のような恰好をさせられていました。昭和20年代の小学校にそんな恰好をしている子供など一人もいないので私の事を「アメリカ人」などと呼んで、からかう人もいました。まさか本当に自分がアメリカ人になるとは思ってもいません子供時代でした。父も戦争でアメリカ人と戦っていた人ですが、結婚することに反対することなく、話はとんとん拍子に進み、私は夫と結婚し今に至っています。
 私になぜ「英里」という名前をつけたのか、一度、父に聞いたことがありました。今にしてみれば、私が将来アメリカに渡ると、どこかで感じていたのかとしか思えられませんね。父は、私が将来アメリカへ行っても通じるようにと「英里・エリ」という名前にしたと話していました。当時の日本の子供は「〇〇子」というのが一般的で「英里」という名前は珍しかったと思います。ただアメリカに渡ってみると「英里」という名前に少々問題が起こります。アメリカでは「EDWARD」というなまえの男性は通称「EDDY・エディ」と呼ばれています。「EDDY」と「ERI」の聞き取りの区別がつかず「エリ」と話しているのに「EDDY」ととられてしまうのでした。ERIのはずが、男性名と間違われるので「ERIKO・英里子」と名乗ることにしました。
 父がずっと思っていたように、私はアメリカへ渡ることとなりましたが、戦争でアメリカと戦っていた人が何故、自分の子がアメリカに行くなどと考えたのでしょうか。
 父の父親、私の祖父(信一と英二の父親である牧野久雄)は、信一が生まれて直ぐに渡米しています。あの頃の小田原は渡米熱が盛んだったと聞いていますが、久雄が学校長という役職を捨て、妻子を残してまで何故アメリカへ渡らなくてはいけなかったのか。久雄が生きていたならば聞いてみたかったです。渡米した久雄はアメリカで学び、海軍の軍艦にも乗っていたという話を聞きました。アメリカから度々手紙や洋服、おもちゃなどを送ってきていたという資料もあります。曾祖父、牧野英福が急逝し、久雄は渡米して10年弱で日本へ帰国します。帰国後の久雄は、日本の生活になかなかなじめずに箱根の富士屋ホテルで通訳の仕事をしていたと知りましたが、小田原の家で英会話を近所の希望者に教えていたとの記録も残っています。そんなこともあり、信一も父、英二も英語が得意だったそうです。英語に対してもアメリカに対して、何の敵対心がなかったのだと思います。
 これらの事を考えると、きっと祖父、久雄が渡米したことから始まり、父、英二、そして私。昔からアメリカとは切っても切れない不思議な縁があったのかもしれません。この話をいただいて考えれば考える程、牧野家とアメリカの不思議なご縁を感じています。
 私の小田原での暮らしやアメリカでの暮らしはまだまだ様々な事があります。信一のようにすらすらと小説でも書ければ面白いかもしれません。またいつか機会があればゆっくりとお話してみたいです。

語り:牧野英里
文 :鈴木美樹