1928年以前 |
音楽と自然(1925・1「山繭」) シユウベルトの抒情味(1928・9「月刊音楽」) |
1929 |
4月 ベルレーヌの愛国詩(白痴群) |
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6月 レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説(ポール・ヴァレリーの翻訳・白痴群) |
1930 |
6月 自然人と純粋人(作品) *のち「自然と純粋」 |
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8月 羽左衛門の死と変貌についての対話(作品) |
1931 |
2月 純粋言語考(作品) |
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6月 「機械」評(作品・共著) |
1932 |
9月 詩と小説の限界について(新文学研究) |
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河上徹太郎と牧野信一 |
河上徹太郎の評論家の本格的出発を「自然人と純粋人」(1930年5月、作品)あたりとすると、同年9月に「作品」に掲載した牧野論「善良なるアテナイの市民マキノ君」の位置は特筆されてよい。
『…僕は真っ先に結論をいおう。何故牧野氏の文章は明朗か? それは歌っているからである。では何故牧野君は歌ふことを許されたか?
それは「マキノ君」が善良なるアテナイの一市民だからである。…』
小林秀雄の「アシルと亀の子」(1930年5月、作品)に対抗して書かれたらしい、この歌いまくったマキノ評は、今読んでも痛快である。一方牧野には、騒々しい酒席での交友に触れて「ひとりごと」(作品、1932年11月)を河上への親愛の情を吐露している。若き河上徹太郎は、マキノファンであることを隠さない。
「死んだ牧野信一」(1936年5月、文学界)に見られる痛切なオマージュ、そして戦後の回想的視点からのマキノ観といい、河上徹太郎という当時の先鋭的な感性が語る牧野信一の姿は貴重な証言である。
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