1928年
以前 |
業苦(1928・1「不同調」)
崖の下(1928・7「不同調」) |
1929 |
7月
生別離(新潮) |
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10月
足相撲(文学時代) |
1930 |
1月
曇り日(新潮) |
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4月
牡丹雪(文学時代) |
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5月
秋立つまで(新潮) |
1931 |
9月
便器の溢れた囚人(改造) |
1932 |
2月
途上(中央公論) |
1933年
以降 |
七月二十二日の夜(1933・1「新潮」)
神前結婚(1933・1「改造」)
父の家(1933・8「中央公論」) |
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嘉村磯多と牧野信一 |
中村武羅夫の庇護のもと『不同調』記者となった作家志望者・嘉村礒多が晩年の葛西善蔵の口述筆記を担当していたことは、よく知られている。また一時『十三人』社友になるなど、『文科』への参加以前にも彼は牧野に近い位置であったとも言うことができる。何より、牧野もまた大正的な私小説作家として出発したのだから。
しかし同じく母への嫌悪を作品上であからさまにしながらも、彼らは余りに違った。
宇野浩二が「知られざる傑作」(1928.9『新潮』)と絶賛した『業苦』(1928.1『不同調』)『崖の下』(1928.7同誌)以後、37歳の誕生日を前に没するまでの7年弱の嘉村の創作活動は、平野謙が「私小説の一極北」と評したそのままのものであった。容姿の醜さにコンプレックスを感じ、また半ばにして学業を放棄せざるを得なかった少年期。若くして結婚した最初の妻への甘えと不信・不和。駆け落ちした恋人との貧困に耐えながらの文学修業時代――多くは残されなかった彼の創作のほとんどは、徹底的に〈崖の下〉の〈業苦〉を描いたもので、中期の牧野が見せたような飛翔はそこにはない。また、牧野が『父を売る子』の連作にみせたような、「私小説」という形式への自覚も薄かった。しかし、処女作以後「私小説」という形式を自明視していた嘉村がその早すぎる晩年に過去の自己を描き始めたとき、そこには自己を対象化しながらその意味を問い直すまなざしが生まれはじめてもいたのではないだろうか。(津久井 隆)
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