1928年以前 |
鯉(1928・2 三田文学) |
1929 |
3月
朽助のゐる谷間(創作月刊) |
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5月
山椒魚(文芸都市) |
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9月
屋根の上のサワン(文学) |
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11月
シグレ島敍景(文藝春秋) |
1930 |
1月
ジヨセフと女子大学生(新潮) |
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4月
『夜ふけと梅の花』(新潮社) |
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7月
『なつかしき現実』(改造社) |
1931 |
4月
仕事部屋(都新聞 ~6月) |
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6月
戸田家畜病院(新潮) |
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8月
『仕事部屋』(春陽堂) |
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9月
川沿ひの実写風景(文藝春秋) |
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井伏鱒二と牧野信一 |
井伏鱒二は文科発刊当時、33歳で「文科」のメンバー中では35歳の牧野と、当時小林秀雄・河上徹太郎など20代後半から30歳の世代の中間に位置している。初期の短篇の傑作を次々に発表して、作家としての自己の方法にようやく自信を抱いた時期と想像される。
ただ「文科」には、4輯中に随筆一遍であり、井伏と「文科」あるいは、牧野との間に一種の距離感を感じる。
井伏は、早稲田の親友の死の思い出を基調にした「鯉」(1928年)で、いち早く牧野から絶賛を受けているが(「エハガキの激賞文」、1929年、時事新報)、この時期には、しだいに牧野の井伏に対する個人的屈折が表れてくる。(「井伏鱒二(その作と人)」、1931年、新潮)以後、作品評にも、人物評にも辛辣さを伴い、井伏もまた戦後、牧野との交友を皮肉たっぷりに振り返る。
しかし、この時期の井伏が「朽助のいる谷間」「シグレ島叙景」などの作品で追求していた言語(日本語と英語、方言と標準語、小説の文体と他の言説の文体)に関する問題意識を真ん中にした小説方法と、牧野のそれには明らかにパラレルな近似性があり、それを互いが深く意識していたのは、間違いあるまい。
決して、快諾ではなかったにしろ、没後40周年に建てられた文学碑の碑文を選び、その記念誌「さくらの花びら」に序を寄せたのも井伏だったのである。
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